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メダロット
 私が携わったゲームボーイの仕事の中では、2作目となります。
 そして私にとっては初のRPGです。このころはまだ、白黒GBだったんですよね。時代を感じます。
 私がまともにグラフィッカーとしてゲーム制作に参加したのは、この作品くらいだったかもしれません。
 元はグラフィッカーとして雇われたにも関わらず、この作品以外、ほぼグラフィックは描いていないのです。
 この作品では、グラフィックと、シナリオ校正をいたしました。
 メダロットの企画が立ち上がった頃は、熟練プログラマーの北玉さんと当時新入社員だった白玉くんがスタッフとして決定していました。
 私はといえば、「いいなー。ロボット物でシミュレーションRPGなんてタノシソー」という感じで、ぼーっと見てました。この頃はよもや私もこの企画に参加することになるとは夢にも思わず、完全に他人事だったのです。
 さて、白玉くんはプランナー(企画屋)兼ディレクターとして雇われたわけですが、まったくの実績を持たない人間を最初からこういった形で雇うのは、会社にとっては結構な博打です。
 この頃私がいた会社でプランナーと言えば、ディレクター業に包括されたものでした。
 つまりディレクターの仕事はゲームの企画やシステム製作のみならず、予算編成や人材確保にスケジュール管理、そして恐怖の定例会議での報告等々、多岐にわたっておりました。
 そんなわけで大抵の場合ディレクターは、グラフィッカーが何本かのゲーム製作にかかわり経験を積んだ後になるものだったのです。
 プログラマーからディレクターに転身するケースもあったのですが、グラフィッカーからの転身の方が圧倒的に多かったです。理由としては、グラフィッカーとして何年か社内で経験を積んだ者に、社命が下っていたからです。
 一方、プログラマーにそういった社命が下ることはほとんどありませんでした。それは、「ゲーム業界では絵が描けるというだけでは心もとないが、ゲームプログラムの技術を持っている者は十分やっていける」という会社側の考えがあったからだと思います。
 もちろん、グラフィッカー自ら希望してディレクターへの転身を果たすというパターンもあるわけですが、それは少数派でした(実際私も、逃げ続けていたディレクター職を二度ほど引き受けることに)。
 ちなみに北玉さんは、プログラマーは企画屋に向かないとおっしゃっていました。
 プログラマーは自らのプログラム知識が邪魔をして、仕様を楽な方に持って行きがちなんだとか。面白いゲームを作るためには、なまじ詳しいプログラム知識がない方がいいというのも一理あるのかもしれませんね。
……と、思いっきり脱線してしまいましたが、白玉くんは当時かの会社では珍しかった(ひょっとしたら第一号だったのかも)、ゲーム製作の経験もないままに最初からディレクターとして雇われた社員だったのです。
 思えば、メダロットの成功を機に最初からプランナー兼ディレクターとして雇われる人間が増えた気がします。会社が、白玉くんは大当たりだったと判断してのことだったのでしょうか。
 ですがそうそう大当たりが続くというわけもなく。その後、雇われてはすぐに消え行くプランナーたちを何人も見送ることになりました。
 そんなこんなで、最初は関係ないやーという目で見ていたメダロットプロジェクトでしたが、ほどなく私にも声が掛かるようになりました。
 理由は恐らく、たまたまタイミングが良かったからだと思います。
 それまで北玉さんと二人チームで一緒にお仕事していたので、北玉さんと時を同じくして体が空いていたのです。
 こうしてプランナー兼ディレクターの白玉くん、プログラマーの北玉さん、グラフィックの私という三人で、メダロットチームが結成されました。
……そう、初代メダロットチームは三人だけだったのです。
 それがメダロット2以降、雪だるま式に人員が増えていくわけですが、その主な原因はやはり、とにかくシナリオのボリュームを増やしまくった私にあったと思います。
 ともかく初期のメンバーが一人でも違っていれば、メダロットはまったく違ったものになっていたかもしれません。個性も性格も特技もバラバラな三人の絶妙なバランスが、メダロットをあのような形に作り上げたのではないかと思います。
 しかしまあ、紆余曲折はたくさんありました。今ではすっかり話のネタですが。

 以下、ダメロット通信「たかだかこの程度の漫画を描くにも時間が掛かって仕方ないのよの巻」です。
ダメロット通信vol.1
○ろっぴぃのこと
 当時、ろっぴぃで書き換えができるGBソフトの中に、この「メダロット」が入っていました。一時ファミ通ランキングでは、この書き換えソフトが二位でした。
 ろっぴぃでGBソフトの書き換えなんて、そんなこともあったんですよね。利用したことはないのですが。